読 物NOVEL

序幕

 清和八年、四月。東都の朝は桜吹雪から始まった。煉瓦造りの大通りに沿って植えられた染井吉野が、淡い燐光を浴びて白く浮かび上がっている。風が枝を揺らすたび花弁が舞い落ち、石畳を薄桃色に染めていく。荷馬車を進める老人がひとり、ゆっくりと通りを横切っていった。車輪の軋みが、朝靄に溶ける。
 魔導灯と桜。西方の科学と八洲国の春。開国からまだ日は浅いが、東都の街並みにはすでにふたつの文明が入り混じり、調和していた。路面電車の軌条が朝日を受けて光り、その脇を着物姿の女が下駄を鳴らして歩く。朝食のために淹れられた珈琲の香りが漂う洋館の隣で、豆腐売りの声が響く。八洲国はまだ若く、内包した熱を夥しいほどに振り撒いている。

 殷、と。空気が軋んだ。
 芙蓉の方角――南西の空が、わずかに黒ずむ。朝焼けの茜を塗りつぶした墨色が、兆しであった。
 魔導灯がちかちかと明滅し、桜の枝に留まっていた雀たちが一斉に飛び立った。老人の荷車の馬が嘶き、足を踏み鳴らす。

 霊峰芙蓉の麓から、それは溢れ出した。

 異形の群れであった。
 胸に虚ろな穴を穿たれた半人半獣の巨人が四つ足で山肌を駆け下りる。頭部の半ばが黒い空洞に呑まれた翼あるものが、墨色の空を旋回している。腹に穴を空けた小さな影が数十、数百と連なって裾野の森を這い出す。声もなく、呼吸の音もなく。無数の足音がただ地鳴りのように響いていた。鬣を靡かせた獅子、ぬらりと光る鱗を有した大蜥蜴、樹木のような巨腕を誇る樹人。かつて妖神と呼ばれたものたちが、自我を喪い、ひとつの奔流となって人里を目指していた。その肉体に空いた穴の奥には、何も見えない。朝焼けすらも呑み込む――虚。
 その数は、八洲国の歴史上類を見ないものであった。

 桜の季節のことである。
 彼方より来たる虚無より八洲国を救うのは、新政府か、結社か――。

 菊の花を抱えて、蓮見恒成は墓地への坂を登っていた。
 命日ではない。月命日でもない。ただの習慣だ。深紅のコートの裾が石段の縁を掃くのも構わず、軍帽の庇の下から墓石の並びを見渡す。朝の墓地は静かで、桜の花弁が墓石の肩に積もっていた。黒い鴉が一羽、杉の梢から恒成を見下ろしていた。の類ではないかと探り、すぐに杞憂と悟る。それっきり、興味を失った。
 井上機関東都南支部長。虚撲滅のためなら手段を選ばぬと言われる男。その男が毎月、判で押したようにこの坂を登る。部下は知らない。彼らに知る必要もなければ、男に語る理由もなかった。
 目当ての墓に近づいたとき、恒成の足が止まった。
 墓石の足元に、一輪の花が横たえてあった。花瓶に活けたのではない。ただそっと、置いてある。
 白い曼珠沙華。
 乾いて色の褪せかけた、ドライフラワーだった。
 四月に、曼珠沙華。秋の花だ。誰かがわざわざ乾かして保存し、この墓前まで持ってきた。
 恒成は菊を抱えたまま、周囲を見渡した。石段を降りた先の砂利道にも、桜並木の向こうにも、人影はない。墓地の外を流れる小川のせせらぎだけが、静寂を縁取っている。その静けさに寄り添うように、かすかな妖気がしとしとと漂っていた。
「君か」
 その気配には覚えがあった。人でも妖神でもない、境界に立つ者の残り香。マザリモノの男。黒い革手袋の指が、膝の上で握りしめられた。
 白い曼珠沙華の花言葉を、恒成は知っていた。また会う日を楽しみに。それが墓の下の彼女に向けた言葉なのか、あるいは――。
 季節外れの花に、過ぎた季節の想いを託した誰かが、無性に胸を灼いた。囚われているのだ。過去に。失われたものに。もう二度と会えない人に。私たちは
 恒成は何も言わず、抱えていた菊を白い花の隣に供えた。桜が散る墓地に、秋の花。
 長い沈黙のあと、恒成は口を開いた。
「……すまない」
 眼鏡の奥の目は、花を見つめたまま動かなかった。

 墓地の石段を降りると、ひとりの巫女が立っていた。
 白衣に赤い袴、白い目隠しの布で両眼を覆った女――サクラヒメ神社の巫女、カナヱである。風に長い黒髪を遊ばせている。頭上には桜の花と金の冠飾り。桜の花弁がその肩にひとひら、ふたひら。
「サクラヒメ神社より、合同作戦の要請をお伝えに参りました」
 カナヱはそう言ったが、恒成は答えなかった。出動要請ならば支部に伝令を寄越せばよい。わざわざ墓地まで足を運ぶ必要はない。カナヱは恒成の表情について何も聞かなかった。ただ並んで石段を降りながら、不意に足を止めた。
「……恒成さま」
「何だ」
「今日ここにお運びになられたことは、きっと、佳きことでございましたよ」
 恒成は振り返らなかった。
「……そうか」
 カナヱもそれ以上は言わなかった。目隠しの下で、何を見ているのか。何を見ていたのか。恒成は問わなかった。問う気もなかった。もとより、部下にすら語らぬ事情である。新政府の者とはいえ、重役の――それも女人に告げる理由もなかった。
 桜の花弁を踏んで、ふたりは東都南支部へ向かった。

 支部の作戦室に戻った恒成は、壁一面に貼られた東都の地図を背に、集まった機関員たちへ指示を飛ばす。声に私情の翳りはなかった。眼鏡の奥の目は、書類の数字だけを追っていた。
「第三分隊は浅沢橋から南岸を封鎖。第五分隊は予備として待機。判断は各分隊長に委ねる」
 若い機関員が挙手した。
「支部長。民間からの避難要請が殺到しておりますが」
「井上機関は対虚の専門機関だ。避難誘導は警察に任せろ。我々は虚を滅する。見誤るなよ」
 声に迷いはなかった。淡々と、しかし有無を言わせぬ重さで。機関員たちが頷く。この男の指揮下であれば生きて帰れる。その確信――否、当世に生まれた神話が、深紅の制服の列に緊張と信頼を同居させていた。
 手元の報告書をめくる指が、一瞬だけ止まった。
 ――尋常ならざる蛇神のマザリモノと思しき存在が虚を捕食する目撃例あり。東都郊外、複数回。
 恒成は何も言わず、次の頁をめくった。
「カナヱ」
「はい。東都南方面に、虚の気配が複数。接近しております」
 目隠しの下から淡々と告げるカナヱの声に、恒成は頷いた。魔導ライフルを肩に担ぎ上げる。ずしりとした重量が、墓地の記憶を押し退けた。
「行くぞ」
 カナヱが宙に手を翳すと、どこからともなく錫杖が現れ、白い指に収まった。いくつもの環が澄んだ音を引き連れて、深紅のコートと白い千早が、作戦室を後にした。

 東都の下町には、魔導灯の光が届かない路地がある。表通りの煉瓦と硝子の文明から一歩踏み込めば、そこは板塀と暖簾の世界だった。表通りでは珈琲を飲む紳士たちが虚の噂を語り合い、路地裏では子どもたちが釘差し遊びに興じている。ふたつの世界のあいだに、明白な境界線はない。ただ、光が届くか届かないかの違いがあるだけだ。

 路地の奥にある茶屋の、さらに奥座敷。畳敷きの部屋で、ふたりの男女が向かい合っていた。
 書生のような身なりの青年が、茶を啜っている。くせのある黒髪に丸眼鏡。緑色の着流しの胸元を大きくはだけた姿は、どこか野性的だった。貴船。西都の結社「トナミ組」に属する侠客である。傍には鞘に収まった妖刀。根付が帯から下がり、触れるとかちゃりと鳴る。
 向かいには、褐色の肌に深い青の瞳を持つ女が座していた。黒髪を高く結い上げ、金と朱の豪奢な簪を挿している。黒を基調とした重厚な衣に金糸の文様。膝の上に置いた手の傍らで、香炉から金色の煙が細く立ち上っている。(まさご)。拝み屋だ。恵体に過ぎる五(メートル)にも及ぶ体躯を持て余すことなく、静かに座している。
 砂の背後に、影があった。
 金色の妖煙の奥に、巨大な黒い狐がうずくまっている。天井を超え、屋根裏を突き抜けるほどの体躯。座敷では到底収まりきらず、妖煙の中に半ば溶けるようにして蹲っている。契約妖神、摩利狗。その黄金の目が、薄闇の中でちらりと光った。
「西都のトナミ組にも、虚の報告が大量に来ている」
 貴船が茶碗を置いた。
「霊峰芙蓉の麓から溢れたらしい。数が尋常やない……いや、尋常ではないな」
「摩利狗が、不穏な気配を嗅いでいる」
 砂は淡々と応じた。青の瞳は香炉の煙を追っている。
「虚が流れてくるのは潰せばよい。問題は新政府の動きだ。あの者たちは、この機を逃すまい」
「妖神の一掃、か。しょーもない……」
「新政府の掲げる旗だな。虚も友好的な妖神も、区別はすまい。摂理に反する振る舞いだな」
 貴船の眉が動いた。丸眼鏡の奥に、静かな怒りが灯る。
「摂理とか何とか、そんな大層な話やないで。眼の前の……」
 訛りが出た。貴船は口を噤み、砂がわずかに口元を緩めたのを見て、ばつが悪そうに茶碗を手に取った。
「……笑うなや」
「笑ってはおらぬ」
 砂の声は穏やかだった。だがそれ以上は続かなかった。香炉の煙が一瞬だけ不自然に揺れた。摩利狗の黄金の目が細まり、路地の方角を射抜く。
「来た」
 貴船はすでに立ち上がっていた。腰の妖刀に手をかけ、暖簾を払って路地に飛び出す。砂が音もなくその後に続いた。

 路地裏の闇に、それは立っていた。腹の位置に黒い大穴を空けた、赤鬼の異形。ただ穴の縁が脈打つように明滅し、自我のない双眸が、ふたりを捉えた。路地の幅は狭い。板塀に挟まれた一間ほどの隙間。逃げ場のない地形だが、そんなもの、侠客が気にするわけもない。
 貴船が妖刀を抜いた。刀身に妖気が纏う。妖刀に宿った狐の妖神の力が刃に流れ込み、淡い燐光が路地を照らした。貴船の背後に狐の残影が複数揺らめく。その眼も、その牙も、眼前の虚へと向けられている。
 呼吸と呼ぶべき間もなく、虚が飛びかかった。
 貴船は斜め上に跳んだ。下駄が板塀を蹴り、更に高度を稼いで頭上を飛び越す。狐の残影のひとつが虚の正面に躍り出て、赤い顔を撃ち抜く。威力は軽いが、もとより撹乱目的だ。本体(貴船)はすでに背後に回り込んでいた。変則的な軌道で刃を振るう。妖気を纏った斬撃が虚の体表を裂き、黒い穴の縁から妖気が噴き出した。加えて、狐たちがその身体を絡め取る。
 拘束に虚が怯んだ刹那、砂が動いた。
 札を投じる。呪詛の文字が宙に展開し、金色の光で虚の四肢を縛った。虚が咆哮する。声にならない振動が路地を揺らし、板塀の木目から埃が舞い上がった。
 拝み屋がオン、と呪言を紡ぐ。
 虚の動きが止まった。そこに、砂の背後から摩利狗の影が伸びる。どぉれ、とでも言わんばかりの緩やかさで、金色の妖煙が凝縮し、巨大な黒い狐の頭部が路地に顕現する。優美な仕草でもあったが、結果は陰惨であった。
 湿気た音とともに、牙が虚を噛み砕く。残る肢体は崩れ落ち、黒い穴はあれよあれよという間に収縮。異形の体が塵のように散っていく。
 その時、虚の腹から何かが零れ落ちた。
 小さな骨だった。子どもの頭骨だ。
 貴船の手が止まった。妖刀を握ったまま、声も出なかった。
 守れなかった。この街のどこかで、子どもが喰われていた。自分たちが茶を啜っている間に。路地裏で遊んでいた子どもたちの声を、貴船は聞いていたはずだった。
「随分と前のものだろうよ」
 砂が言った。平坦な声だった。

 その砂にだけ、聞こえる声があった。

 ――お前の末の妹は、今年で六つだったか。

 摩利狗の声だ。契約妖神のそれは、砂の頭蓋の内側で直接響く。
 砂の手が一瞬止まった。だがその顔は平時そのものだった。
「……ああ、そうだな」
 誰に向けた返事かもわからぬ言葉を、砂は風に流した。貴船は何も気づかない。路地裏の石垣の隙間に、菫がひっそりと咲いていた。踏まれても踏まれても春ごとに顔を出す、小さな花だ。戦いのあとの路地裏で、菫だけが何事もなかったかのように咲いている。
「……遅かった」
 貴船がぽつりと漏らした。妖刀を鞘に収め、拳を握りしめている。砂は菫を見つめ、静かに応じた。
「次は間に合えばよい。虚はいくらでも湧いてくる」

 月が出ていた。東都郊外。人家の途絶えた丘陵地帯に、青年のような影がひとつ立っている。紫の着物に雲の文様、紫の袴に幾何学的な格子模様。短い黒髪、感情の読めない暗い瞳。華奢な体躯。その背後に、白と紫の鱗を持つ巨大な蛇龍がうねっていた。月光を受けた鱗が、冷たく輝いている。
 ヒビヤ。マザリモノだ。
 融合妖神「八岐蛇」の力を宿す者。ヒビヤの前には、虚が三体いた。鼬のようであった。尤も、その身体は大人ほどに大きい。得物は尾鎌に爪。それに牙。黒い穴を胴体に空けた異形どもが、草原の上に散開している。自我のない目が、一斉にヒビヤを捉えた。
「乱暴な子たちだなあ」
 ヒビヤは言いつつ、素足で地面を蹴った。
 華奢な体に不釣り合いな妖気が爆ぜる。草が波打ち、土が弾けた。マザリモノの拳は妖神に届く。魔導武器も妖刀も呪具も要らない。この身体そのものが、此岸と彼岸の境界を超える刃だった。
 最初の虚の胸に両の手を突き込んだ。黒い穴の縁を掴み、引き裂くように消滅させる。虚が悲鳴を上げる間もなかった。二体目が背後から襲いかかる。八岐蛇の尾が、ヒビヤの意志に応えて薙ぎ払った。ばかりか、余った尾が瞬く間に食らいつき、巻き付いていく。白紫の鱗はそのまま虚の体を粉砕した。三体目が逡巡――する暇を、ヒビヤは与えなかった。蹴り足がその顔を削ぐ。妖気を込めた爪先が虚の頭部を文字通り消失させていた。
 三体が塵に還るまで、息ひとつ乱れなかった。
 ヒビヤの表情は凪いだままだった。返り血すらない。虚を三体喰らっても、この青年は汗ひとつかいていなかった。
 もっとも、それには事情があった。妖神「八岐蛇」の力は、人の身には過ぎたものだ。ヒビヤに尋常ならざる負担を強いる。ならば、疾く終わらせれば良い。故に、ヒビヤは押し付けるような戦い方をとる。
「……帰ろうか、姉さん」
 静寂が戻った荒野で、ヒビヤは懐に手を入れた。古い革表紙の手帳を取り出しかけて――やめた。
 遠くの丘に、目を引くものがあった。
 深紅の影。
 月明かりの下で、それは確かに深紅だった。井上機関の制服の色だ。丘の稜線に立つ人影。距離がありすぎて、顔は見えない。向こうからもこちらの顔は見えないだろう。
 ヒビヤは一瞬だけ目を細めた。暗い瞳の奥で、何かが揺れたように見えた。だがそれは月光の悪戯だったかもしれない。
 背を向け、闇のほうへ歩き出した。

 ――そこへ、別の気配が割り込んだ。

 歯車の軋む音。小型の魔導機械を抱えた異形の影が、荒野を横切ってくる。竜頭にオレンジの髪を炎のように靡かせた大柄な人物。白いシャツの上に黒革のエプロン。袖口に五芒星と歯車の意匠。両手に抱えた魔導機械が、歯車を回しながら小さな光を放っている。
 魔導科学庁の"燈竜博士"ドラゴナ。西方から派遣された「お雇い外国人」である。
 ドラゴナは虚の消滅痕にしゃがみ込み、小型魔導機械を翳してサンプルを採取し始めた。残留妖気の波長を測定する。魔導機械の針が振れ、歯車が逆回転した。竜眼の奥で、ドラゴナが低く唸る。
「妖気が反転している……だが、何が引き金だ」
 善悪への関心はない。ただ未知の原理がそこにあり、それを解き明かしたいだけだった。虚の大量発生は悲劇であると同時に、前例のない規模のデータが手に入る好機でもある。その二つの認識に、ドラゴナは矛盾を感じない。そういう人物だった。
 背後に、まだ消えていない気配があった。振り返ると、月明かりの下にヒビヤが立っていた。青年は、熱のない目でドラゴナを見ていた。ドラゴナは新政府側の人間であり、ヒビヤは結社のマザリモノだ。本来なら敵同士である。だが、その竜眼に宿った光は、敵を見るそれではなかった。学者の目だった。
「お前がこの虚を喰らったのか」
 ヒビヤは答えなかった。継続して、出方を伺っている。
「……話を聞かせてもらっても?」
「できれば、通してほしいかなぁ」
 ヒビヤは応じなかった。だが逃げもしなかった。ドラゴナに敵意がないことを感じ取ってはいるのだろうが――退路を塞いでいる竜人に、どうしたものかを決めあぐねていたのだ。井上機関の人員との挟撃の可能性を捨て去れない。
 月明かりの中で、敵同士のふたりが向かい合っていた。ドラゴナはしゃがんだまま、ヒビヤは立ったまま。どちらも動かない。
 ドラゴナの視線が、ヒビヤの懐に移った。握りしめられた古い手帳。革の表紙が月光を鈍く反射している。ドラゴナの指が伸びかけた。あらゆるものを解き明かしたいと願う、冒涜者の指先は僅か数ミリの距離で、止まった。
 手帳を握るヒビヤの手が、かすかに震えている。気づけば、ドラゴナは手を引いていた。そして身体をずらし、道を空ける。「どうも」とだけ残して、ヒビヤは路地の向こうへ駆けて消えた。紫の着物が闇に溶け、八岐蛇の気配が遠ざかっていく。
 強大に過ぎる力の反作用かもしれない。或いは、ドラゴナの知らぬ事情があったのかもしれない。謎が多い青年だった。
 ひとり残されたドラゴナは、虚の消滅痕を見つめたまま小さく呟いた。
「……面白い街だ、東都は。誰も彼も、望むままには生きられないのか」
 研究室の棚に置きっぱなしの、一枚の写真を思い浮かべていた。カナヱと二人で写ったもの。カナヱは目隠しをしていなかった。

 サクラヒメ神社の私室。
 カナヱは目隠しを外していた。黒瞳が、手元の紙片を映している。ドラゴナから届いた走り書きのメモだった。
「まじウケるな〜〜。このタイミングで新しい仮説思いつくとかさ」
 巫女の声ではなかった。目隠しの下に隠された、素顔の声だ。ドラゴナの前でだけ外す目隠し。この神社で、この私室で、ドラゴナの走り書きを読んでいるときだけ、カナヱは巫女でなくなる。外国人であるドラゴナに、此の国の権威は通じない。ヤシロの巫女であることは、彼にはなんの影響も及ぼさないからだ。
 ……だが、笑みはすぐに消えた。
 予知が走った。
 断片的な像が瞼の裏を灼き、電撃的な痛みに涙が滲む。紫の着物。古い手帳に挟まれた赤い曼珠沙華の押し花。乾いた白い曼珠沙華。深紅のコート。黒い穴。そして――アカイロが……。
 カナヱは目を閉じた。
 目隠しの布を取り上げ、結び直す。白い布の下に、視えたものを封じ込めるように。指が震えていた。予知が視せるものを選ぶことは、カナヱにはできない。視えてしまう。視えてしまったものを、なかったことにもできない。
「ササクラコトエリヒメ様、どうか――」
 祭神との交流は、禁じられている。
 無論、返事はなかった。
 桜の花弁が、開け放たれた窓から一枚、畳の上に落ちた。

 翌朝。
 井上機関東都南支部。深紅の制服が整然と並んでいた。朝日が機関紋章の金糸を光らせ、磨き上げられた靴が石畳に影を落としている。
 恒成が、隊列の前に立った。
「霊峰芙蓉より虚が溢れた。数は未曾有だ。幾度目かのな」
 声は平坦だった。感情を載せる必要はない。事実を述べればよい。ただ、言葉の妙味に、笑いが混じった。
「これまでと同じだ。我々井上機関は、人は人の力で立てることを、八洲国に示す」
 機関員たちが背筋を伸ばした。深紅の制服の列が、朝日の中で引き締まる。カナヱが恒成の隣に控え、錫杖を左手に提げている。ドラゴナが魔導機械の杖を担いで隊列の端に合流した。
 恒成は一瞬だけ、南を振り返った。墓地のある方角だ。桜の花弁が、その方角から風に乗って飛んできた。白い花弁が、深紅のコートの肩に触れて落ちた。
 恒成は前を向いた。
「出撃する」

 同じ朝。東都の地下道に、結社の構成員が集まっていた。侠客、拝み屋、マザリモノ。闇に目を光らせる者、妖煙を纏う者、人ならざる肢体を隠す者。地下水路の水音が、低く響いている。
 貴船が中央に立ち、声を張った。書生風の青年の丸眼鏡の奥に、侠客の炎が灯っている。昨夜の路地裏で見た、小さな骨。あれを忘れるつもりはなかった。
「政府に任せれば、虚もろとも妖神ごと滅ぼされる。それだけは――させへん」
 語尾がわずかに訛った。砂が背後に控え、静かに頷いた。香炉から立ち上る金色の妖煙が、地下道を染めていく。摩利狗の巨大な影が天井を覆い、黄金の目が結社の面々を見下ろしていた。
 壁に凭れかかって、ヒビヤが無言で聞いていた。懐の手帳を、無意識に押さえている。

 深紅のコートが、東都の大通りを進む。
 妖煙を纏った影が、地下道から這い出る。
 桜が風に攫われ、大通りを白く染めていた。花の季節の只中に、刃の季節が始まる。

 だれも、終わりなど望んではいない。己の信ずるものを抱え、そのために力を振るう。

 ――清和八年四月。後に「アヤカシ闘乱」と呼ばれることになる混乱の幕が、開いた。

執筆:ムジカ・トラス